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Books, music, thinking and so on.

どうしたら長い文章が書けるのか。

 家に帰って着替えをすませ、夕食を食べながらパソコンの前に座る。そして今日のはてなブログの人気記事をずらずら眺めてみる。そうしてるうちにある記事に目が止まる。

 

今年37歳になる僕がもしも新卒で就活するとしたら。社会に出たから分かるポイントとか。前編かも。 - 心のパンツは脱げるのか?

 

書いているブロガーさんはnarushimaさんというらしい。さらに続いてエントリー内に張られているリンクをたどってもうひとつの記事に行き着く。

 

大企業かベンチャーかという議論に翻弄される就活生が、困っている。 - Taroの(就活)日記

 

そのままずらずらと記事を読む。沢山の引用、記事の並びなどとても読みやすいと思い、Taroさんの記事をさらに過去にさかのぼって読んでみる。Taroさんの生活の一部が垣間見えて面白い。そこである言葉が頭をよぎる。「二人とも記事がこんなに長い記事を書けてすげえなあ」と。

 

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 ブログでいつも文章を書こうとするとはじめに想定していた文字数より最終的に書き終わった文章がだいぶ短くなってしまいいつも恥ずかしく思ってしまう。そんな時、まさに見られることを意識しながら文章を書いているんだなと気づく。そして少し落胆する。

 

 日記を書くとき、頭の中にはその日の出来事がぐるぐる回って、想いが、文字がどんどん湧き出してくる感覚に襲われる時がある。というよりもむしろその方が多い。なのだけれどブログはそうはならない。ぐだぐだと間延びした文章にはならない。簡潔に、完結にと文章を書こうとしてしまう。一体どうしたら長い記事のブログを、文章を書くことができるのだろうか。

 

 さきほど紹介したTaroさんのブログの初期の記事をつれずれと読んでみたとき、それぞれの記事のタイトルの気張ってないほんわかさ(といったら失礼かもしれないけれど)に魅かれた。記事の内容は大方、彼の考えたこと、思ったことなどを日記調に綴ったものだった。匿名で、誰かの耳を気にしないような空気で書き綴った文章だった。シェイクスピアの「マクベス」の有名な魔女の台詞を思い出す。「奇麗は汚い、汚いは奇麗」。

 

 見栄えを気にして背伸びした書き方が本当に奇麗なのか。直すところだらけな、けれど話の芯がある文章、どちらが奇麗でどちらが汚いのか。

 

 結局、今日も長い文章は書けなかったことに落胆する。指を動かす早さと頭から言葉が続いてゆかないことにやきもきする。しかしそれが今の自分の筆力なんだと思い知らされることが今の自分には必要なことなのだろう、向きあわなければいけないのだろう。

 

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 読んだ本の記事を書こうと思っていたのに全く違うものになってしまって少しクスッとする。次はちゃんと本の感想を書かないと。 

マクベス (新潮文庫)

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